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19世紀初頭にイギリスの植民地支配によりキャンディ王朝が滅びて後、現在に至るまでのスリランカの内政の変遷をご紹介します。(※セイロン国と呼ばれていた時代もスリランカと表記しています)

近年

2008~2009

2008年にはスリランカ政府はノルウェー政府に対し、2002年から続いてきた停戦合意を正式に破棄する通告をし、約2週間後に失効。2009年、LTTE側から停戦交渉を持ちかけられるが、スリランカ政府は拒否。ムライティブの海岸部を残し、LTTEの実効支配地域のほぼすべてを政府軍が制圧。事実上のLTTE壊滅状態。LTTE側も、戦闘放棄声明を発表。事実上の敗北宣言。
2009年5月19日、LTTE指導者であるヴェルピライ・プラブハカランの遺体が発見される。ラジャパクサ大統領は内戦終結を宣言する。約27年間に及ぶ内戦は幕を落とす。
2010

内戦終了から半年以上経ち、国内が安定的に安全になったのを受け、ラジャパクサ大統領は任期を2年弱残し、第6回大統領選挙を前倒しで1月に実施する。現職のスリランカ自由党のラジャパクサ大統領が勝利。対抗馬となったのは、LTTEを壊滅に追い込んだ、当時の将軍フォンサカ。4月には総選挙も行われ、スリランカ自由党が225議席中、146議席を獲得し、大勝利を収める。今後6年間は大統領選挙、国会議員選挙がおこなわれる可能性が極めて少ない。スリランカは今後、安定した政治、安全を期待できる。そして、ラジャパクサ大統領は、今後6年間の重要政策項目の1つとして経済再建を中心とした政策を掲げている。2010年のGDP伸び率が7%以上を見込まれていることからも、今後飛躍する国の一つとなるだろう。

19世紀からの内政の変遷

1829~1889

イギリス植民地下で本格的な国づくりが始まる。この時期に、第一期司法改正を実施。また、9つの州が制定される。1844年、奴隷制度が完全撤廃される。

1912~1936

1931年に21歳以上の男女普通選挙制度が導入。また、同年に第一回国家評議会議員選挙が実施。1935年、土地なし農民に政府所有地を分配。

1939~1945

第二次世界大戦勃発。スリランカは連合国の主要地点とし機能する。何千にも及ぶイギリス・アメリカ軍の兵士が、スリランカに駐留。1945年には、現在も続いている無償教育制度が導入される。

1947~1951

1947年、第1回総選挙を実施。統一国民党が与党となり、党首のドン・スティーブン・セナナヤケが初代首相に就任。翌年には、英国連邦自治領として独立し、セイロン国となる。しかし、政府はインド・タミル人の70%(約90万人)に市民権の付与を否定、また市民権を持たないインド・タミル人の選挙権もはく奪した。これがきっかけとなり、この30年後にスリランカは本格的な内戦国に突入してしまう。1951年には、国歌が制定される。また、サンフランシスコ講和会議において、当時の大蔵大臣が日本に対する賠償請求権を放棄。この時の演説は、戦勝国、敗戦国に大きな影響を与える。

1952~1958

第2回総選挙も統一国民党が与党を維持。1955年には与党が掲げた「シンハラ・オンリー政策」にインド・タミル人が大きく反発する。同年、スリランカは国際連合に加盟する。翌年実施された第3回総選挙では、統一国民党が大きく議席を落とし野党となる。第一与党となったのが、可半数以上の議席を獲得したスリランカ自由党が率いる、人民統一戦線である。2つのインド・タミル人政党の合計議席数も統一国民党の議席数を超える。
また、この頃から連邦党(インド・タミル人政党)の指導により、「反スリ運動」が開始。そして、それに対抗する形で「親スリ運動」も始まり、1958年には両運動が激化する。
1960~1964

1960年には第4回と第5回総選挙が行われる。第4回総選挙から議席数が全95議席から全151議席になる。3月に行われた第4回では統一国民党が与党を奪回。インド・タミル人政党である連邦党との連立を模索するが、失敗に終わる。7月に行われた第5回総選挙では、スリランカ自由党に与党を奪われる。スリランカ自由党の党首である、シリマボ・バンダラナイケが世界初の女性首相に就任。インドとスリランカによる、インド・タミル人の引き取り人数を設定し、セイロンはインド・タミル人の約30万人に市民権を付与する。

1965~1970

1965年に実施された第6回総選挙では、統一国民党が与党を奪取。統一国民党がインド・タミル人の連邦党、タミル会議との連立に成功。1970年実施の第7回総選挙では、スリランカ自由党が与党に返り咲く。

1972~1976

英国自治領から、スリランカは共和国に変更。国名をセイロン国からスリランカ共和国に改称。仏教の準国教化、公用語はシンハラ語と明記する。また、議会も二院制から一院制に移行する

1977~1982

第8回総選挙から全151議席を全168議席に変更。この回は、140議席を勝ち取った統一国民党が大勝。また翌年には、議院内閣制から大統領内閣制に移行。国名もスリランカ共和国から現在のスリランカ民主社会主義共和国に改称。また、公用語はシンハラ語のみ。その翌年の1982年には、国会をコロンボからスリ・ジャヤワルダナプラ・プラコッテに移動。国会議員の任期が4年から6年に変更され、初の大統領選挙が実施される。

1983~1987

タミル・イーラム解放のトラ(以下:LTTE)が分離独立の獲得を主張して独立運動が本格化。野党がタミル人保護のために、インド軍の派遣を要求。全政党会議の委員全員が、無国籍のインド・タミル人にスリランカ市民権を付与することに合意。また、1985年にはインド仲介のもと、プータンの首都ティンプーにおいてスリランカ政府とタミル人武装組織との第一回和平交渉が開始する。第二回和平交渉も行われたが、スリランカ政府によるタミル人虐殺が続発したため、和平交渉は決裂。その後1987年には、スリランカ大統領とインド首相の間で、インド・スリランカ和平協定が調印される。

1988~1990

国会議員議席数が全196議席から、現在の全225議席に変更される。1988年には第二回大統領選挙を実施。統一国民党のラナシンハ・プレマダーサが勝利し、翌年1989年に第2代大統領に就任。その年には、第9回総選挙も実施され、統一国民党が過半数以上の議席を獲得し与党を守る。またこの頃、インド平和維持軍が駐留するが、度重なるLTTEによる妨害により、1990年に撤退。

1991~1994

1991年には、与党である統一国民党の内部分裂が起こる。同時に、内戦もエスカレート。数多くの死者、負傷者を出す。1994年、第10回総選挙が実施されスリランカ自由党が率いる人民連合が17年ぶりに政権与党となる。また4年ぶりにスリランカ政府とLTTEの和平交渉を再開。同年行われた第3回大統領選挙では、スリランカ自由党が勝利。クマーラトゥンガが第4代大統領に就任。

1995~1997

1996年、スリランカ政府軍がジャフナ半島全域を制圧。攻防をさらに強めていく政府軍に対し、LTTEが反撃を開始し、コロンボを狙った自爆テロがエスカレート。スリランカ外相は、西欧諸国にLTTEをテロ組織に指定させようと働きかける。イギリス政府の仲介により、与党の人民連合と野党の統一国民党の間に、民族紛争解決に向けた歴史的な合意が成立。そして、1997年には国際人権委員会がLTTEをテロ組織と認定。

1998~1999

1998年、スリランカ政府は122億ルピーにも及ぶ国防費の追加支出を国会に承認要請する。また、イギリス政府がスリランカ政府に対し、和平交渉の仲介役になる意思があることを伝える。1998年、スリランカとインドの間で、自由貿易協定が結ばれる。。2000年度の国家予算全体は前年比10%減であったが、国防費は前年に比べ11.5%増加の524億ルピーを国会に提示された。また、1999年末に実施された大統領選挙では、現職が再選。

2000~2001

2000年には、和平交渉仲介役として、ノルウェーが登場する。また、政府はイギリス政府に対し、LTTEを非合法化するように正式要請。第11回総選挙を実施。人民連合が再選を果たし、引き続き与党となる。スリランカ・ムスリム会議が、人民連合を支持するか否かで、内部分裂を起こす。また、政府はインド・タミル人に民族自決の承認を拒否。2001年には、スリランカ自由党のクマーラトゥンガ大統領が、軍事的な解決と憲法改正の両方に完全失敗し、第12回総選挙に踏み切る。第12回総選挙では、統一国民党が与党に返り咲く。統一国民党の党首であるウィクラマシンハが首相となる。新しい首相はLTTEとの和平交渉、スリランカ経済の復興を掲げる政策をとるが、野党の大統領と与党の首相との対立が、スリランカ政治に暗い影を落とす事になる。LTTEとの和平交渉推進の第一歩として、首相はノルウェーに和平交渉仲介役を正式に依頼。人民連合も統一国民党を支援すると発表。

2002~2003

スリランカ政府が、あらゆる物品に課せられる6.95%の国家安全保障税を撤廃。また、国内路線の飛行禁止措置を解除した。2002年には、スリランカ政府とLTTEの間で、停戦協定が結ばれる。2002年から2003年にかけては、LTTEとスリランカ政府は6度に渡る和平交渉の席につく。アメリカ、イギリス、EU、その他の国が、スリランカの復興活動に対する資金的援助も約束した。しかし、2003年には、LTTEとの和平交渉は中断。また、首相は、国営ラジオ、国営テレビ、国営新聞を管理下に置くこととする。そして、2004年には、首相と大統領の確執もさることながら、LTTEも内部分裂してしまう。

2004~2005

第13回総選挙が実施。統一人民自由連合 (スリランカ自由党と人民解放戦線の政党)が、勝利。久しぶりの政権交代が起こる。この選挙後には、LTTEと政府の和平交渉は目途が立たないものとなっていく。また、2004年12月26日、スマトラ沖地震による津波が発生。スリランカは大被害を受ける。LTTEと政府で復興資金を公平に分配するための組織設立を巡り、対立に発展していく。当初は、政府とLTTEの間で、資金分配の覚書に両者合意したが、その後最高裁が合意の核となる4つの条項に発効停止命令を出す。津波発生の翌年には、人民解放戦線が統一人民自由連合と連立を解消。

2005~2007

2005年11月、第5回大統領選挙を実施。スリランカ自由党の、現在の大統領でもある、マヒンダ・ラジャパクサが大統領に就任する。就任当初には、和平交渉の再開を目指す姿勢を強調するものの、次第に軍事的な対決を重視していく。2006年には、政府とLTTEの関係が悪化し、全面的な内戦に再突入してしまう。政府は停戦破棄を否定したが、LTTE側は停戦崩壊を宣言。大統領と野党の統一国民党のウィクラマシンハが、スリランカが直面している死活的に重要な問題に関する6項目についての覚書に合意。そして、和平交渉も再開されるが、何も進展なく終了してしまう。2007年、LTTE側、政府側の攻撃が激化。スリランカ政府軍は事実上の東部州制圧。